何度も登場させてすみません。
1991年(平成3年)の『タウン情報はままつ別冊 浜松まつり 掟』の表紙の写真の一つです。
でも、今回はチカラが入っていますので、しっかりと読んでいただきたい。
この写真は何年の写真か?という年代特定について、別の指摘があったので、再度「1963年~1966年説」を主張します。
この表紙写真の出典は、表紙をめくった「目次」の欄外に掲載されておりました。
前掲書の5頁。左上に写真提供元の記載あり。
つまり、ここ数年は凧場での合戦解説などもされている、かの山田さん。
そして、山田さんは少し前に自費出版もされて、この写真も掲載されておりました。
それがコチラ。
山田有一『動 粋 静 浜松まつり』(2007年)の表紙。
この62頁に、戦後の経緯の解説と併せて、元の写真が掲載されております。
何度も言いますが、まこと貴重な写真です。
そして写真の右下には
「昭和22年凧揚げ会場に35ヶ町位が参加(和地山練兵場跡地)」
とあります。
ここで、???となるのですね。
この写真には、野口町の茶色の法被が写っています。
この「腰に吉原つなぎと松」が入っている法被です。
この法被は、野口町が今の屋台を新築した年に、同時に考案した法被であるとされております。
つまり1963年(昭和38年)以降の法被であります。
だから、練兵場の写真も1963年以降だと考えた次第です。
だが、写真を所有している山田さんは「昭和22年」(1947年)と表記。
1947年は、凧揚祭が戦後はじめて再開された年。
山崎さんはこのときは練兵場ではなく「いまの静大工学部の蜆塚の寮のグラウンドを借りた」と記述しています。
山田さんは、「寮のグラウンドでもやった記憶があるが、それが1947年だったかどうか判然としない」と書いております。
こうなると、どちらも記憶の部分なので、「和地山だった」「いや、蜆塚だった」と主張し合っても、どっちが正しいとかいう判断はできませんね。
そこで。
もう一つ、野口町の法被以外の根拠を探しました。
写真のやや右側に、本部員と思しき姿が見えます。
これが本部員(のちの「凧揚部員」)であるならば。この制服の年代でもある程度特定できる。
そこで、山崎源一編著『浜松凧屋台』(1983年)の102-103頁。
歴代の「浜松連合凧揚会本部」(戦前の「同統監部」、のちの「浜松まつり本部凧揚部」)の記録。
今のグレーの制服になる前は、黒っぽい制服。
その境目が、1959年(昭和34年)/1960年(昭和35年)頃らしい。
練兵場での写真は、グレーの今の制服に見えるのです。
野口町の法被、本部員の制服。
この2点をもって、「1963年~1966年」説を、改めて確認するところであります。
(善)