「なんでもあり」じゃいかんですよ
随分とご無沙汰をしておりました。
2018年、今年も各所で当日へ向けての準備が盛況。
いろいろと「問題」ばかりが取りざたされがちな「浜松まつり」です。
「まつり」というのはいろいろなものがあります。
地域において、青年集団が中心となって担う「まつり」は、基本的には歴史的なもの。
「歴史的な」とは、まつりを支えている基盤となっている社会が変容する以前から、時代を超えて続いている、という意味です。
凧揚祭は、1980年代末の「バブル期」に発生したわけでも、1960年代の「高度経済成長期」に発生したわけでも、「戦後」に成立したわけでもありません。
そういう意味で、凧揚祭は歴史的な行事です。
当研究会としては、
「凧合戦」発生が1880年代、
「凧揚祭」成立が1910年代、
と、理解しております。
「時代と共に変わる」というフレーズは、いろいろなシーンで見聞きします。
どんなものであれ、取り囲む社会環境・経済環境の影響を受けないものなどありません。
しかし、核になる部分は守られるべきです。
「なんでもあり」なってしまっては、まつりである意味がありません。
「歴史的な」という位置づけを失ってしまいます。
一方で、まつりの人数を確保したいがために、「出てくれればありがたい」 という感覚が、時としてあるものと思います。
それでも、その根底にある意識は「○○町のまつりを維持するために、手伝ってくれればありがたい」というものの筈です。
「威勢のいい掛け声」ではなく、「汚い大声」を張り上げるようなだらしのない男女がギャーギャーいう姿を
「今の若い衆はこんなもんだ、出てくれるだけでもありがたい」
と許容するのとは、まったく異なります。
そこのところの節度を、運営側が守ることができるかどうか、というところがキモになってくるものと思います。
具体性の無い、観念的なお話になってしまいました。
久々の投稿ゆえ、ご勘弁ください。
時間が許せば、もう少し具体的なお話も踏み込んでさせていただきます。
(善)
1920年頃、練兵場の天狗連。
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