メモです

カテゴリー │「浜松まつり」諸問題

「まつり(祭)」と聞くと、とかく「好き」か「嫌い」かとか、そういう話になってしまうことが多いのですが。



 もちろん嫌いじゃできませんが、「好き」なだけというわけでもありませんね。



 行政上の位置づけは、「観光」とされることが多いですね。



 でも観光のためにやってるわけでもなく。





 じゃぁ「何なんスか?」となるわけです。



 何なのかといわれても困りますが。



 これくらいの話ならできるぞ。



 というのが以下。



 メモです。



   (善)


★ビジュアル(視覚)の話

凧じるし
凧絵の特徴
法被
提灯
屋台(古建築として見る)


★アイテム(凧まつりの道具)の話

凧(和紙と竹)
糸(麻)
テギ
糸枠


★競い合いにこそ本質があるという話


★歴史的経緯の話

5日間が3日間になった
練兵場から中田島へ
「旧町内」だけじゃなくなった

5日間はいつからか
練兵場はいつからか
「旧町内」はいつできた

凧合戦はいつからか
町内対抗戦になった瞬間


★町名の話

町内と町名と地名と



 昭和58年5月の写真(上の文章とは特に関係はありません)





 

歴史的な行事を大切にする(一部修正して再掲)

カテゴリー │「浜松まつり」諸問題

みなさま、本年もお疲れさまでした。



 今年は3日間、お天気になってまずまずでしたね。



 欲を言えば、もう少し大人しい風の日があってもよかったかなァ。



 なにせ、どんなまつりでも、きまった行動様式の中における不確定要素が発生したときに、各組の結束したエネルギーが発露されるもの。



 そういう意味では、不安定な強風下の凧揚げは不確定要素そのもの。



 エネルギーを吸い取られるわけです。



 くたびれました。





 地域の伝統的な祭は、放っておいたら滅んでしまうか、あるいは変質して何でもありになって継続するか、今やそういう状況に立たされています。


 そんな現代社会において、何でもありじゃいかんですよ、ということを申していた当ブログの投稿記事がありましたので、令和元年5月2日の投稿記事を一部修正して再掲いたします。


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『中日新聞』平成31(2019)年4月24日(水)1面!


 中沢町が戦前版の法被を復刻。


 この記事。
 今年(令和元年=2018年)の凧揚祭関連の記事の中では、もっともワクワクしたものでした。

 中沢町のような大きな町で、法被を変更するということを周知して一致させるというご苦労。



 並大抵ではなかったのでは、と想像されます。



 90年代頃から、藍染ブームと共に、法被の改変が相次いだのですが。



 そのほとんどは従来の図案をやたらでっかくしたり。



 書体を規格書体(千社文字など)に変えてしまったり。



 腰柄を取ってしまったり。



 色を省略してしまったりと。



 文化継承、文化財保存の観点からは、いかがなものかと思える事態。



 現在まで続いております。



 変えなければ、法被も売れませんから、そういう意味では、祭じたいが「消費文化」に取り込まれてしまった、と言えそうです。



 その中にありながら、失われた戦前版を復刻しようという動きも。



 少しづつではありますが、ないわけではありませんでした。



 もっとも、戦前は、法被には藍染がしっかり使われておりました。



 硫化染料が既にあったにもかかわらず、です。



 今まで我々が発見している戦前の法被は、茶色などの青系統でないものを除いて、すべて藍染でした。



 というわけで。



 戦前からの歴史を持つ組は、どうせ藍染にするのなら、戦前版を復刻することは「藍染ブームに乗っかる」以上の意味があると思うのですね。



 その理由は以下2つ。



 現在も「文化保存」とかなんとか言わなくても、現役で楽しめる祭が、戦前から続いている歴史的な行事であることを再確認するという点。



 戦前までに浜松で育まれた図案文化を保存するという点。



 さて、記事の中沢町。
 下記資料からも確認できました。

 
『濱松の凧』1931年(昭和6年)より
当時の今で言う「パンフレット」です。



 同じ画でこの3年前のにあたる1928年(昭和3年)版にも載っています。




 記事にあるように、「大正期」にあたる時期から使用していたであろう、ということは、資料からも裏付けられますね。



 パンフレットには、輪繋ぎに二重線の腰柄。
 今回の復刻では採用されなかったようですが、ここにも根拠があるのだろうと想像します。





 「なんでもあり」と勘違いした連中によって、何でもアリのような誤解が拡がってしまったこの祭。

 歴史的な観点からも、そうじゃないんだ、ということを理解しなきゃいかんと思います。



 今年(令和元年)も、凧揚げまつりに突入しますが、とにかく「しかるべき形」で次の世代に渡せるかどうか。



 明日から、忙しく慌ただしくあっという間に終わってしまうとは思いますが、そのことはいずれどこかでしっかり議論される必要があろうかと、心の片隅で思いつつ。



 各組、各町内の御健勝を祈念申し上げます。


     (善)



 

凧揚げまつりを解説してみた

カテゴリー │「浜松まつり」諸問題

たいへん御無沙汰しております。







 東日本の地震のあと、その年が中止(平成23年)。




 そして、新型コロナウイルスが世界的に蔓延しているということにされて、その年も中止(令和2年)。




 翌令和3年、4年と縮小開催。




 これらばかりではありませんが。




 いろんな事が絡まって。




 凧まつりを例年の通りにやる、ということが、




 たいへん困難に(それも年を追うごとに)なってきているように、私、思えてなりません。




 何をやるにも話が通じにくいなァと、感じることが多くなりました。













 浜松の凧揚げまつりってどんなまつりですか。




 という問いを投げかけられたらば、



 各組で担っている皆さまは、どのように解説しますか??



 「初子」(はつご)という言葉。

 そもそも凧まつりへの理解が乏しいマスコミによる造語だ!、と疑っている当研究会としては。



 以下のように説明してみたい。


 改訂するつもりで「第1版」としておきます。



【独自解説(第1版)】

 毎年5月3~5日に開催している、浜松の凧揚げまつり。

 現在は「浜松まつり」の「凧合戦」「屋台引き回し」として開催されております。

 各町内の印(しるし)が入った凧を揚げて、糸を切り合って勝負する、という、町内対抗の凧合戦のまつりです。

 同時に、端午の節句のお祝いとして、初節句の家へ町内から「初凧」を贈ります。

 各町内は初凧を含め10枚前後の凧を用意して、3日間の凧合戦に臨みます。


 千歳町の凧のマーク(凧じるし)は「天狗」。よって組名は「天狗連」。



 鍛冶町の凧じるしは「『か』に親子線」、組名は「か組」。



 紺屋町の凧じるしは「コ」、組名は「コ組」。




 こんな風に、各町内ごとに、(ちょうど世界各国の国旗のように)、凧じるしが決まっております。



 凧合戦終了後、夜は、各町内所有の屋台を中心部で曳きます。

 唐破風(からはふ)屋根が特徴的な屋台の美しさ、練りの威勢の良さを、市中心部を舞台に、競い合います。

 屋台のお囃子は、古くは花柳界の面々と各組青年が、戦後は各町内の子供連が、花柳界のお師匠さんの指導により、担っています。


 昼は凧合戦で競い合い、夜は屋台の意匠や美しさ、練りの人数や威勢の良さなどこれを競い合います。

 そして各町内へ戻ると、初節句の家から凧揚げのお礼として酒肴が振舞われます。「初練り」と言います。

 当年の「初」の軒数や振る舞い(接待)の豪華さも競い合いの対象になったりします。


 凧合戦だけではなく、各町内ごとの凧じるし、法被の図案、若い衆の人数、威勢の良さ、財力、初の軒数、屋台の美しさなど、あらゆるものが競い合いの対象となります。

 凧揚げまつりは「凧合戦を契機とした、浜松各町内の町内対抗戦のまつり」ということができます。


 明治10年代の凧合戦流行期の各町内消防組を契機となり、町内対抗戦として定着し、明治末期から大正初期にかけて祭礼的行事として浜松旧市内に定着した、近代地域文化の一つと位置づけられます。昭和5年には、天覧の栄に浴しました。


【独自解説終わり】



      (善)




 

つつじが咲くと

カテゴリー │2024年


R6/4/下旬撮影(南方から松江町交差点方面を臨む場所)





 浜松の歩道には、多くのつつじが植えられております。





 これに花が咲くころ、凧まつりがやってきます。





 というわけでやってきました。







 5年ぶりの通常開催。





 頑張ってまいりましょう。


    (善)



 

浜松らしくなって

カテゴリー │見聞2024年

R6/4/14(日)。





 朝から町内の準備をするにあたっては、燃料も補給しつつ行います。





 アルコール系の内服する「燃料」です(笑)。





 法被を着て、朝から飲む「燃料」はこれがまた美味しい。







 準備を終えて、周辺を歩くと、このような風景に出くわします。



(同日、昼頃、新町にて)

(拡大!)



(同日、昼頃、馬込町にて)





 初節句のお祝いに際し、糸目付けを終えた初凧が飾られる。





 なんとも良い風景じゃないですか。





(同じようなことを12年前にも申しておりました)
https://takoken.hamazo.tv/e3555154.html
2012(H24)/4/8記事「4月も中旬へ」






 そんな風景も楽しみつつ。





 昼食後は身体と肝臓を休ませるべく、自宅で仮眠。





 そしたら、ワッチョピッピの声と音が・・・。





 新町か??


 (布団の中で音を聞いただけなので未確認。だが、たぶん新町)





 近くを通り過ぎていくワッチョピッピの音。





 なんともいい音じゃないですか。





 自分自身もずーっと先頭でやってきただけに。





 自分が発信していないよその組の音に耳を傾ける、というのもまたよい。






 ああぁ・・・浜松らしい風景だな。



     (善)



 

「屋台」と呼ぶ

カテゴリー │記事屋台

先日来、投稿している馬込町の新屋台の話。





 今回は新聞記事を読んでみます。





 まずは『静岡新聞』R6/4/1(月)11面。



 違和感なくスッと読めましたの。





 「御殿」という字が無いからですね。





 浜松の屋台は、本来「屋台」。





 「御殿屋台」は、山崎氏が命名した、とご本人の著作にありました。

https://takoken.hamazo.tv/e5154350.html
2014/2/22投稿「『浜松凧屋台』」


 しかし、寺社建築・堂宮建築では、そういう用語は無いそうで。





 山崎さんが、何をもって「御殿屋台」と言っているのかは明らかにされていません。





 例えば「二層屋根の屋台」なのか、それとも「凧揚げまつりの屋台すべて」なのか、とか。





 本研究会としては。「屋台」もしくは「浜松屋台」と呼称しております。





 で、こちらは『中日新聞』R6/4/2(火)13面




 こちらでは、見出し(タイトル)と記事導入部にこそ「御殿屋台」が用いられていますが。





 全体としてはそんなに強調されていない。





 天峰建設さんが棟梁としてこだわったのか、馬込町の面々が昔ながらの自然体だったからのか・・・。

 (その辺は聞いてみない事にはわかりません)





 それはそうと。


 二層の軒下組物が「三手先組」になっているのは、浜松初だと思いますね。





 「二層 軒唐破風 三手先組 屋台(にそう のきからはふ みてさきぐみ やたい)」といえばよいのでしょうか。



     (善)




 

馬込町新屋台

カテゴリー │見聞屋台





撮影:筆者 R6/3/31午後


 馬込町の新造屋台の試し引きの風景に偶然にも遭遇した瞬間。





   (善)



 

久しぶりの

カテゴリー │見聞屋台






 ご無沙汰してました。





 久しぶりの投稿となりました。





 馬込町の屋台。





 新築です。





 この界隈では久しぶりの出来事ですね!。





 偶然だったのですが、「試し引き」しているところに遭遇。





 町内のよけるべき電線を確認していたのだとか。




      (善)

写真は筆者(令和6年3月31日午後)撮影