浜松の屋台
昨2011年9月16日記事で、「松江町の屋台」と題して、浜松の屋台の戦後の再建ぶりについて書きました。
http://takoken.hamazo.tv/e3213069.html
これ、改めて加筆修正して掲載します。
浜松の屋台は、戦前のものはそのほとんどが戦争中に焼かれており、焼け残ったものはほんの数台だったと聞いております。先日の定例会の研究報告では、八幡町、野口町、鴨江町と西上池川町が戦災を免れたとK氏によって指摘されました。
私を屋台の世界に引きずり込んださる方によれば、
「あの戦争で、浜松は市街地もろとも屋台もそのほとんどを失った。にもかかわらず、全部と言っていいくらい再建できたのは、全国でも浜松くらいだ」と。
指摘されなければ気づかない話ですが、事実ですね。
その話をうかがったのは、もう10年以上前だったかと思いますが、生前の祖父にそのまま伝えたら、「(いわれてみれば)そのとおりだ」と、やはりその指摘を半ば誇らしげに喜んでおりました。
戦後、家も焼かれ、街並みを失い、文化財を失った当時の人々にとって、その喪失感たるや並大抵ではなかったのだろうと思うのです。
戦後教育を受けている我々は、【戦前=戦争ができた憲法=ダメ】、【戦後=戦争を放棄した憲法=よし】という単純な図式で
ついつい戦前を見てしまいがちです。
しかし、戦前・戦中・戦後を体験された世代の方々に伺うと、戦前と戦中もまたずいぶんイメージが異なっていることが読み取れるのです。
この辺について、2005年のアメリカ映画『SAYURI』の中で、リアリティをもって表現されています。
戦前は日本建築の中で優美な着物を着た芸者さんの文化が花開いた時期。
当ブログでいく度となく取り上げている戦前の『凧案内』を見ても、法被や凧印などの図案を創り出した時代があったことを認識せざるを得ません。そして芸者さんがお囃子をやったという戦前の屋台も登場してきます。
五者神社や諏訪神社も大修築が開始され、華やかな姿を取り戻したのが戦中。
それが1938(昭和13)年から凧揚祭禁止。映画『SAYURI』でも、戦時下において花街が閉鎖されたシーンが描かれています。戦前の華やかさと戦中の殺伐とした印象とが対比されておりました。
さらに空襲で焼失する。
戦後しか知らない我々には想像しがたいことかもしれませんが、戦争に負けた以上に、財産を焼かれ文化財を失ったこと、法被や凧や屋台も失ったこと。
相当の喪失感だったろうと思うのです。
祭りを再開して、屋台に着手したときは、さぞ嬉しかったことでしょう。
そればかりではなく、それができた浜松という当時の街の迫力もまた並みではない。
全国には、再建されずじまいであったり、あるいは祭りそのものが途絶してしまった街もあったりということを思うと、そりゃ「誇らしげ」にもなりますわね。
浜松はそれだけ迫力のある街だった、凧まつりもそういう勢いがあった、ということは、やはり押さえておきたいと思うのです。
その「戦後最初(1949年)新築の屋台」。
平田町(1987年、naka2氏撮影)
馬込町(1987年、naka2氏撮影)
松江町(1952年撮影)
(善)
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