2012年01月05日22:24
パンフ『'82浜松まつり』⑤≫
カテゴリー │パンフレット1982
1982(昭和57)年のパンフレット。
見開き。凧印のページ。

前年比で1組純増でした。
全部で71組の凧印が掲載されているわけですが、実際に凧場に71の陣屋があったかというと、そういうわけでもありません。
今と違って、凧印は保有していても、何らかの事情で、その年は取りやめていたりする組がチラホラとありました。
知る限りで、松江町や早馬町や旅籠町や富吉町などは休止した年があり、旅籠町や富吉町は、屋台は出したけど凧場にはいかなかった、という具合だったかと思います。
したがって、「その年の凧印の数 イコール その年の凧参加組数」にはならない、ということです。
いわゆる 「旧町内」 は66組だった、というわけですが、戦後の参加組数の推移を見ていると、ピークの66組は1年か2年で、最もすくない年で凧は34組まで減った時期もあったそうです。
よく、「昔は50位しかなかった」とか「40程度だった」というように、人によって証言する数がバラバラなのはそのため。
それぞれの印象に残っている年の組数を記憶されているせいですね。
(善)
◆浜松凧揚祭研究会「第1回報告会」◆
http://takoken.hamazo.tv/e3362101.html
2月12日(日) 13:30〜 Uホール2階にて。入場無料です。
お待ちしております。
見開き。凧印のページ。

前年比で1組純増でした。
全部で71組の凧印が掲載されているわけですが、実際に凧場に71の陣屋があったかというと、そういうわけでもありません。
今と違って、凧印は保有していても、何らかの事情で、その年は取りやめていたりする組がチラホラとありました。
知る限りで、松江町や早馬町や旅籠町や富吉町などは休止した年があり、旅籠町や富吉町は、屋台は出したけど凧場にはいかなかった、という具合だったかと思います。
したがって、「その年の凧印の数 イコール その年の凧参加組数」にはならない、ということです。
いわゆる 「旧町内」 は66組だった、というわけですが、戦後の参加組数の推移を見ていると、ピークの66組は1年か2年で、最もすくない年で凧は34組まで減った時期もあったそうです。
よく、「昔は50位しかなかった」とか「40程度だった」というように、人によって証言する数がバラバラなのはそのため。
それぞれの印象に残っている年の組数を記憶されているせいですね。
(善)
◆浜松凧揚祭研究会「第1回報告会」◆
http://takoken.hamazo.tv/e3362101.html
2月12日(日) 13:30〜 Uホール2階にて。入場無料です。
お待ちしております。