『中日新聞』2019年4月24日(水)1面!
中沢町が戦前版の法被を復刻。
この記事。
今年の凧揚祭関連の記事の中では、もっともワクワクしたものでした。
中沢町のような大きな町で、この話を周知して一致させるというご苦労は並大抵ではなかったのでは、と想像されます。
90年代頃から、藍染ブームと共に、法被の改変が相次いだのですが。
そのほとんどは従来の図案をやたらでっかくしたり、書体を規格書体(千社文字など)に変えてしまったり。
腰柄を取ってしまったり、色を省略してしまったりと。
文化継承、文化財保存の観点からはいかがなものかと思える事態が現在まで続いております。
変えなければ、法被も売れませんから、そういう意味では、祭じたいが「消費文化」に取り込まれてしまったのですね。
その中にありながら、失われた戦前版を復刻しようという動きも。
少しづつではありますが、ないわけではありませんでした。
もっとも、戦前は、法被には藍染がしっかり使われておりました。
硫化染料が既にあったにもかかわらず、です。
今まで我々が発見している戦前の法被は、茶色など青系統でないものを除いてすべて藍染でした。
だから、戦前からの歴史を持つ組は、どうせ藍染にするのなら、戦前版を復刻することは「藍染ブームに乗っかる」以上の意味があると思うのですね。
その理由は以下2つ。
現在も「文化保存」とかなんとか言わなくても、現役で楽しめる祭が、戦前から続いている歴史的な行事であることを再確認するという点。
戦前までに浜松で育まれた図案文化を保存するという点。
さて、記事の中沢町。
下記資料からも確認できました。
『濱松の凧』1931年(昭和6年)より
当時の今で言う「パンフレット」です。
同じ画でこの3年前のにあたる1928年(昭和3年)版にも載っています。
記事にあるように、「大正期」にあたる時期から使用していたであろう、ということは、資料からも裏付けられますね。
パンフレットには、輪繋ぎに二重線の腰柄。
今回の復刻では採用されなかったようですが、これにも根拠があるのだろうと想像します。
「なんでもあり」と勘違いした連中によって、何でもアリのような誤解が拡がってしまったこの祭。
歴史的な観点からも、そうじゃないんだ、ということを理解しなきゃいかんと思います。
今年も、凧揚祭に突入しますが、とにかく「しかるべき形」で次の世代に渡せるかどうか。
明日から、忙しく慌ただしくあっという間に終わってしまうとは思いますが、そのことはいずれどこかでしっかり議論される必要があろうかと、心の片隅で思いつつ。
各組、各町内の御健勝を祈念申し上げます。
(善)