2014年10月01日00:54
合同練り見直し≫
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2014年9月17日付の『静岡新聞』21面です。
「合同練り」見直し

浜松まつり組織委員会(旧「浜松まつり本部」に相当)が、ブロック単位(ブロックを構成している複数町内)での合同練りを、各町内ごとの形に改めていく方向で「調整していることがわかった」という記事。
つまり、現時点で、「決定」ではなく「これから調整していく」あるいは「目下調整中である」、という内容。
合同練りというのは、1995年に初めて登場した行事の名称と理解しております。
その根拠がこの記事。

1995年4月26日付『中日新聞』(赤の囲み線は筆者による)
ですが、それ以前から、屋台出発前の時間帯に、駅南の各町内を中心とした「南部会」などが統一行動として連合練りを実施していました。
正式に「行事」となったのは、上記1995年かと思っていましたが、判りません。
というのも、95年のパンフレットにはその記載がありません。 パンフレットに記載がないのに、新聞発表になっているという(今考えると)奇妙な状況なのであります。 つまり、94年にも実はあったのかもしれません。ということです。
いずれにしても、それ以前の80年代にはすでに実施していた南部会の統一行動あたりから始まったのだろうと思います(記憶と推測)。
「南部会」というのは、当時の、海老塚町、砂山町、寺島町、龍禅寺町、北寺島町、浅田町、森田町と、卸本町、砂丘町、三島町、神田町・・・などで構成していた旧「南部」の連合会。
ご覧の通り、世帯数も人口も大きく(当時)、まつり当日の人数も多い上に威勢のよい駅南各町が中心。その連合練りでしたので、(文字に表現しきれない)迫力が、それはもう凄い迫力があったわけです。
その後、西部連合、西部会、高台連合(それぞれ当時の西部1区・2区・3区に相当)・・・と、中央1~3区以外の各区域の連合練りが盛んになり、現在のブロック制(1-16ブロック)導入とともに、公式行事になった、と理解しております。
この辺は、自分の行動範囲での体験・見聞と推測だけを基に記述しておりますので、どの区域が先でどの連合が後かは判りません。
(善)
「合同練り」見直し

浜松まつり組織委員会(旧「浜松まつり本部」に相当)が、ブロック単位(ブロックを構成している複数町内)での合同練りを、各町内ごとの形に改めていく方向で「調整していることがわかった」という記事。
つまり、現時点で、「決定」ではなく「これから調整していく」あるいは「目下調整中である」、という内容。
合同練りというのは、1995年に初めて登場した行事の名称と理解しております。
その根拠がこの記事。

1995年4月26日付『中日新聞』(赤の囲み線は筆者による)
ですが、それ以前から、屋台出発前の時間帯に、駅南の各町内を中心とした「南部会」などが統一行動として連合練りを実施していました。
正式に「行事」となったのは、上記1995年かと思っていましたが、判りません。
というのも、95年のパンフレットにはその記載がありません。 パンフレットに記載がないのに、新聞発表になっているという(今考えると)奇妙な状況なのであります。 つまり、94年にも実はあったのかもしれません。ということです。
いずれにしても、それ以前の80年代にはすでに実施していた南部会の統一行動あたりから始まったのだろうと思います(記憶と推測)。
「南部会」というのは、当時の、海老塚町、砂山町、寺島町、龍禅寺町、北寺島町、浅田町、森田町と、卸本町、砂丘町、三島町、神田町・・・などで構成していた旧「南部」の連合会。
ご覧の通り、世帯数も人口も大きく(当時)、まつり当日の人数も多い上に威勢のよい駅南各町が中心。その連合練りでしたので、(文字に表現しきれない)迫力が、それはもう凄い迫力があったわけです。
その後、西部連合、西部会、高台連合(それぞれ当時の西部1区・2区・3区に相当)・・・と、中央1~3区以外の各区域の連合練りが盛んになり、現在のブロック制(1-16ブロック)導入とともに、公式行事になった、と理解しております。
この辺は、自分の行動範囲での体験・見聞と推測だけを基に記述しておりますので、どの区域が先でどの連合が後かは判りません。
(善)