2019年12月31日01:45
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カテゴリー │「浜松まつり」諸問題
しばらくぶりの投稿です。
長~い空白の期間、大変失礼いたしました。
2019年、元号変わって令和元年。
浜松において「凧好き」(=凧揚祭が好き)で、各町内で青年として凧揚祭を担っている我々にとって、今年は大きな事柄が2つありました。
一つは「すみたや鴨江店」さんの閉店。
もう一つは「一瀬堂」さんの職人さんの急逝。
いずれも、市内で古い歴史を持つ、凧屋さんの話です。
凧(揚祭)を担っている青年にとって、「4月に、凧屋さんへ凧を引取りに行く」というイベント。
もちろん「準備の一環」ではありますが、その一方で、それぞれにワクワクする楽しみであるはず。
少なくとも、若い頃から熱狂的であるワタクシにとっては、45歳になった今でも楽しみなイベントであります。
それはまるで、ミッキーマウスのファンが、東京ディズニーランドに行くのと同じぐらい、いや、それ以上のエンターテイメントである次第です。
その凧屋さんの一角、すみたや鴨江店さんが閉店された。
厳しい時代であります。
固有の事情があるのでしょう。
であったとしても、この喪失感。「寂しい」というだけでは言い尽くせない何かがある。
一瀬堂の職人さん。
店の「看板」であった元気なおばさんが、72歳の若さで急逝されました。
凧作りのシーズンには、主に「ロウ入れ」の作業、そして絵凧の墨入れを担っていらっしゃいました。
砂山町のキツネ、布橋北町(旧名残町)の日がらすなど、実に味のある、優美な線を描かれていました。
私も個人的にもお世話になった方でした。ご冥福をお祈りします。
浜松に少なくとも100年以上前からあった、「すみたや」さんと「一瀬堂」さん。
「伝統工芸」といってまったく遜色のない仕事、その風景を守り継がれたその姿が、大きく変わる歴史的瞬間に、望むと望まざるとにかかわらず、立ち会うことになってしまいました。
3軒あった「浜松凧製作所」は、今後、「上西すみたや」さんと「一瀬堂」さんの2軒となって、これからも受け継がれたものを守って行かれます。
浜松の町内の青年の一人として、微力ながら見守っていきたいと思います。
2019年 令和元年 12月31日
(善)

長~い空白の期間、大変失礼いたしました。
2019年、元号変わって令和元年。
浜松において「凧好き」(=凧揚祭が好き)で、各町内で青年として凧揚祭を担っている我々にとって、今年は大きな事柄が2つありました。
一つは「すみたや鴨江店」さんの閉店。
もう一つは「一瀬堂」さんの職人さんの急逝。
いずれも、市内で古い歴史を持つ、凧屋さんの話です。
凧(揚祭)を担っている青年にとって、「4月に、凧屋さんへ凧を引取りに行く」というイベント。
もちろん「準備の一環」ではありますが、その一方で、それぞれにワクワクする楽しみであるはず。
少なくとも、若い頃から熱狂的であるワタクシにとっては、45歳になった今でも楽しみなイベントであります。
それはまるで、ミッキーマウスのファンが、東京ディズニーランドに行くのと同じぐらい、いや、それ以上のエンターテイメントである次第です。
その凧屋さんの一角、すみたや鴨江店さんが閉店された。
厳しい時代であります。
固有の事情があるのでしょう。
であったとしても、この喪失感。「寂しい」というだけでは言い尽くせない何かがある。
一瀬堂の職人さん。
店の「看板」であった元気なおばさんが、72歳の若さで急逝されました。
凧作りのシーズンには、主に「ロウ入れ」の作業、そして絵凧の墨入れを担っていらっしゃいました。
砂山町のキツネ、布橋北町(旧名残町)の日がらすなど、実に味のある、優美な線を描かれていました。
私も個人的にもお世話になった方でした。ご冥福をお祈りします。
浜松に少なくとも100年以上前からあった、「すみたや」さんと「一瀬堂」さん。
「伝統工芸」といってまったく遜色のない仕事、その風景を守り継がれたその姿が、大きく変わる歴史的瞬間に、望むと望まざるとにかかわらず、立ち会うことになってしまいました。
3軒あった「浜松凧製作所」は、今後、「上西すみたや」さんと「一瀬堂」さんの2軒となって、これからも受け継がれたものを守って行かれます。
浜松の町内の青年の一人として、微力ながら見守っていきたいと思います。
2019年 令和元年 12月31日
(善)
