2012年04月27日00:34
陣屋の配置≫
カテゴリー │歴史
先日の「浜松まつり総会」で、いろいろな資料と共に、今年の陣屋配置図が配られました。
「陣屋」は名のとおり、「凧合戦の戦場」である「凧場」のいわば「前線基地」。
凧場に面して各組が陣取ったわけですね。
陣屋は練兵場時代(1966(昭和41)年以前)には、四方に杭を打ち、旗を立てたものだったと聞いております。数少ない写真からもその様子がうかがえます。
「凧揚祭」は「凧合戦」をメインに据えた祭だったから、そういう名前が自然とつけられていったのだろうと、想像します。
中田島の現在地に移設されて以降、具体的な年代は判りませんが、現在のテントになった次第です。
で、その陣屋も凧場に面してあった。南側、西側。参加組数が増えるに伴い、東側、北側と4方取り巻く形になっていったように記憶しています。
ところが1990(平成2)年、浜松まつり本部は、陣屋を凧場南西側に制限、入りきらない分を駐車場部分へ配置しました。
当時の新聞記事で、浜松まつり本部会長の栗原市長(当時)の案として報じられていたように記憶しています。違っていたらごめんなさい。
1990年は大雨の年、3日の晩から5日の夕方まで降った年。NHK衛星放送の生中継が入った年。新参加町が10町も増えて、136町の規模になった年。
このあたりから、それまでの風景が一気に崩れていったなぁと感じているところ。
1995年には、すべての陣屋が駐車場部分へ押し出されました。
数年前から、凧場内と駐車場部分と、再びローテーションされるようになりましたが。
(善)
小池弘編 写真集『浜松祭り』(IKE、1981年)より
1980年の凧場陣屋、南裏側より東北方面を撮影したもの。
「陣屋」は名のとおり、「凧合戦の戦場」である「凧場」のいわば「前線基地」。
凧場に面して各組が陣取ったわけですね。
陣屋は練兵場時代(1966(昭和41)年以前)には、四方に杭を打ち、旗を立てたものだったと聞いております。数少ない写真からもその様子がうかがえます。
「凧揚祭」は「凧合戦」をメインに据えた祭だったから、そういう名前が自然とつけられていったのだろうと、想像します。
中田島の現在地に移設されて以降、具体的な年代は判りませんが、現在のテントになった次第です。
で、その陣屋も凧場に面してあった。南側、西側。参加組数が増えるに伴い、東側、北側と4方取り巻く形になっていったように記憶しています。
ところが1990(平成2)年、浜松まつり本部は、陣屋を凧場南西側に制限、入りきらない分を駐車場部分へ配置しました。
当時の新聞記事で、浜松まつり本部会長の栗原市長(当時)の案として報じられていたように記憶しています。違っていたらごめんなさい。
1990年は大雨の年、3日の晩から5日の夕方まで降った年。NHK衛星放送の生中継が入った年。新参加町が10町も増えて、136町の規模になった年。
このあたりから、それまでの風景が一気に崩れていったなぁと感じているところ。
1995年には、すべての陣屋が駐車場部分へ押し出されました。
数年前から、凧場内と駐車場部分と、再びローテーションされるようになりましたが。
(善)
小池弘編 写真集『浜松祭り』(IKE、1981年)より
1980年の凧場陣屋、南裏側より東北方面を撮影したもの。