2013年08月09日00:55
戦後の経緯・浜松まつり本部≫
カテゴリー │歴史
さて、1947(S22)年に再開した凧揚祭。
主催は戦前と同じ、浜松連合青年会がつくる「浜松連合凧揚会本部」でした。戦前には「浜松連合凧揚会統監部」と言いました。
ところが、1950(S25)年に、浜松商工会議所が「浜松まつり本部」を設けて、凧揚祭と同期間、商工祭をやることになりました。
「浜松まつり」の名称はこの時からのものです。
本部は2つ。
戦前から続く「浜松連合凧揚会本部」と、この年に出来た「浜松まつり本部」。
浜松まつり本部は商工会議所内に設置。
総務部・凧揚部・演芸部・商工祭部・農業祭部・宣伝部の6部を設けたとのこと。
ここの凧揚部には連合凧揚会本部の本部長があたっており、2本部並立の状態でありながら、形として浜松まつり本部が全てを統括していたことになる。
という理解でいいのだと思います。
ここから、商工会議所側の「浜松まつり本部」と、戦前から続く「浜松連合凧揚会本部」が並立する体制が20年間続きました。
ただ、全体の行事名称を「浜松まつり」としたことにより、後世、たいへんな苦労をすることになります。
実際は、2つの本部が主催する2つの行事を同時並行的に開催している、という状態でありながら、名称上は「一つのまつり」としたために、一昨年「中止」の際に議論になった「誰が主催か」という問題がつきまとうことになりました。
コチラには当時の経緯が詳しく載っています。
荒川章二(共著)『浜松まつり―学際的分析と比較の視点から―』(岩田書院、2006年)
(善)
主催は戦前と同じ、浜松連合青年会がつくる「浜松連合凧揚会本部」でした。戦前には「浜松連合凧揚会統監部」と言いました。
ところが、1950(S25)年に、浜松商工会議所が「浜松まつり本部」を設けて、凧揚祭と同期間、商工祭をやることになりました。
「浜松まつり」の名称はこの時からのものです。
本部は2つ。
戦前から続く「浜松連合凧揚会本部」と、この年に出来た「浜松まつり本部」。
浜松まつり本部は商工会議所内に設置。
総務部・凧揚部・演芸部・商工祭部・農業祭部・宣伝部の6部を設けたとのこと。
ここの凧揚部には連合凧揚会本部の本部長があたっており、2本部並立の状態でありながら、形として浜松まつり本部が全てを統括していたことになる。
という理解でいいのだと思います。
ここから、商工会議所側の「浜松まつり本部」と、戦前から続く「浜松連合凧揚会本部」が並立する体制が20年間続きました。
ただ、全体の行事名称を「浜松まつり」としたことにより、後世、たいへんな苦労をすることになります。
実際は、2つの本部が主催する2つの行事を同時並行的に開催している、という状態でありながら、名称上は「一つのまつり」としたために、一昨年「中止」の際に議論になった「誰が主催か」という問題がつきまとうことになりました。
コチラには当時の経緯が詳しく載っています。
荒川章二(共著)『浜松まつり―学際的分析と比較の視点から―』(岩田書院、2006年)
(善)