戦後の経緯・復活再開

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下の記事で、「凧キチ」がどうのこうの、という話をしました。


 浜松では、古くから「凧まつり好き」の事を「凧キチ」と呼んだ、という話。「凧まつりのクレイジー」というあたりが語源でしょう。

 モチロン英語由来の筈はなく、「熱狂的な愛好者」をよぶヤマトコトバです。「釣りキチ」という使い方と同じ。



 ここで、挑戦的なコトを言いますが、自称「凧キチ」は少なからずいることでしょう。
 (最近じゃ「凧キチ」もあまり使われない言葉ですが)

 じゃ、どのくらい凧まつりの事を理解しているのか、っちゅう話になるの。

 もちろん、その理解の程度を測る指針もないのですけどね。



 少くとも「凧キチ」の皆様には広く共有していただきたいと願うことの一つが、戦後の経緯。

 戦争で中断してい凧揚げまつりが今に至るまで、どういう経緯をたどってきたのか、という事。



【戦後の経緯】復活再開

1945(S20)年 (敗戦)。
1946(S21)年 (各組単位で復活されていたらしい。凧揚げはなし。)
1947(S22)年 旧浜松工業高等学校(=現在の静大工学部の前身)の西寮グラウンドを凧場に借用して開催※1。
1948(S23)年 中田島砂丘の一部に土をいれて凧場とした※1。
1949(S24)年  同上※1。 戦後初の屋台新造(平田町・馬込町・松江町・龍禅寺町・元城町)※2。

※1荒川章二「戦後版 浜松まつりの成立と発展」(荒川(共著)『浜松まつり』岩田書院、2006年)
※2浦部一郎「浜松屋台の思い出」(『東海文化新聞』1976年5月号)


 敗戦後の3年間、旧練兵場は使用されなかった模様。
 理由は判りません。
 旧軍用地であることと、占領期であったということ、この辺に使用できなかった理由があるように推測されます。旧軍用地の処分が定まっていなかったのかもしれません。


細かな状況は以下の通り。

 屋台は、急造の仮屋台や底抜屋台がすでに1947年からあった。
 戦前から空襲焼失を免れたものとして4台(八幡町・野口町・鴨江町・西上池川町)は確認していますが、その全てが毎年参加実施していたかどうかは判りません。
 1949(s24)に初めて本格的な屋台が再建(新築)された。

開催期間(荒川さん前掲書による)
 1947(S22)年 3~5日(凧揚は5日のみ)
 1948(S23)年 3~5日
 1949(S24)年 1~5日

参加組数
 1947(S22) 凧15、屋台48(?)
 1948(S23) 凧33、屋台46
 1949(S24) 凧42、屋台54


 経験もしていないので全く実感がないのですが、大変な時代だったのだろう、と思います。今日食う飯もままならぬ時代に、みんなそれでも凧まつり再開に尽力したんだなァと。



 写真は素晴らしいのですが。
戦後の経緯・復活再開
(パンフレット『82浜松まつり』)




               (善)



戦後の経緯・復活再開
戦後の経緯・復活再開



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この記事へのコメント
二俣祭•浜松凧揚祭•掛川祭•三熊野神社大祭など様々な地域に法被があります。共通点が各地域ありますね

ただ最近の浜松凧揚げ祭に衿文字の書体や背紋に関して江戸文字を使用しており、なおかつ藍染(限りなく黒に近い青•紺 )の法被が増えているように感じ、見分けがつけません。

それがだめだと否定も、肯定もいたしません。

素朴なんですが何故なんでしょうか。

大雑把で申し訳ありませんが、原因となる?理由などあれば参考にしたいです
Posted by 雄山神社 at 2013年08月20日 00:39
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