2012年03月08日23:19
5日間だった頃②≫
カテゴリー │歴史
こんばんは。
「の組東小八中OB」さま、貴重なお話ありがとうございます。
5日間時代というのは、1962(昭和37)年まで。 戦後~1962年までのこの季節、いわゆる「旗日」(国民の祝日)は、「憲法記念日」の3日と「こどもの日」の5日だけ。
1日と2日と4日は、全国的には「平日」でした。
浜松は特別。5日間「凧まつり」のために仕事を休んだというのですね (自営業者が多かった時代だからこそという時代背景も)。
ところが、学校などはそうもいかず。
小学校などは2時間目が終わると終わり。各町内へ戻って法被に着替えて整列して練兵場へ。
高校は通常通り授業があったらしく、浜商出身の方に、「校舎から練兵場で揚っている凧が見えた」と伺ったことがあります。
戦前は、おっしゃるように、現在の静大工学部は陸軍の高射砲浜松第1連隊、和地山公園はその練兵場でした。
10年以上前ですが、4月末の季節に、祖父を医療センターへ乗せていったことがありまして。
姫街道の亀山町から名残町付近を走っていると、「戦前はこの通りに屋台がずーっと並んでな・・・」などと思い起こしておりました。
戦前の凧まつりは1937(昭和12)年までで、翌1938年からは戦争(日中戦争)のため休止していたといいます。
したがって、戦前の凧まつりの記憶を持つ人というのは、1930(昭和5)年頃より前に生まれた世代ということになりますね。
(善)
(いつもながら写真はイメージです)
(撮影:peko、2008年12月7日)
「の組東小八中OB」さま、貴重なお話ありがとうございます。
5日間時代というのは、1962(昭和37)年まで。 戦後~1962年までのこの季節、いわゆる「旗日」(国民の祝日)は、「憲法記念日」の3日と「こどもの日」の5日だけ。
1日と2日と4日は、全国的には「平日」でした。
浜松は特別。5日間「凧まつり」のために仕事を休んだというのですね (自営業者が多かった時代だからこそという時代背景も)。
ところが、学校などはそうもいかず。
小学校などは2時間目が終わると終わり。各町内へ戻って法被に着替えて整列して練兵場へ。
高校は通常通り授業があったらしく、浜商出身の方に、「校舎から練兵場で揚っている凧が見えた」と伺ったことがあります。
戦前は、おっしゃるように、現在の静大工学部は陸軍の高射砲浜松第1連隊、和地山公園はその練兵場でした。
10年以上前ですが、4月末の季節に、祖父を医療センターへ乗せていったことがありまして。
姫街道の亀山町から名残町付近を走っていると、「戦前はこの通りに屋台がずーっと並んでな・・・」などと思い起こしておりました。
戦前の凧まつりは1937(昭和12)年までで、翌1938年からは戦争(日中戦争)のため休止していたといいます。
したがって、戦前の凧まつりの記憶を持つ人というのは、1930(昭和5)年頃より前に生まれた世代ということになりますね。
(善)
(いつもながら写真はイメージです)
(撮影:peko、2008年12月7日)
この記事へのコメント
(善)さま
しつこく書き込みしまして申し訳ありません。わたしも子供のころ、逝去した祖父からお祭りの話を聞いたことがあったものですから、書き込んでしまいます。
「底抜け屋台」が登場したのは大正時代からだったのでしょうか。祖父が言うには、昔の屋台は「底抜け」で、戦後しばらくの時期、鴨江の双葉遊郭がいわゆる赤線禁止法? によって今の健全な住宅地になる前、夜には芸者衆の曳く底抜け屋台も出ていて、揃いの浴衣を着た芸者衆がそれはきれいだったとか。。わたしらのそばだと、元浜がそういう雰囲気だったか?。
昭和50年代には、コンパニオンが出始める前で、会社の新年会なんかでも、芸者さんが来ていた時代だったと聞いています。わたしも微妙に記憶にあって、お正月には稲穂のかんざしを曲げにさしていたのを覚えています。
前にお書きになっている通り、そんな情緒があったからこそ凧のお囃子が歌舞伎浪曲なのでしょうし。
文化芸大ができて、広小路東六間南の雰囲気は変わりました。公園ができたり、ヤマダ電機、コンビニやレストランも増えて、生活も便利になりました。わたしが思うのは、それはそれでよかったけれど、浜松の中心はやっぱり元城小・縣居小校区にあるべきで、東小校区は春雨通りやあずま通りのころのままでよかったのではないかということです。縣居小校区の方に投資をしていれば、駅から大工町まで人の流れができて、町ももっとよくなっていたかも。まあ、わたしの勝手な妄想ですけどね。
浜松市中区中央の件もそうでしたし、凧の中止も自治会に相談したふりをして勝手に決めてしまったし、行政には文句をつけ続けることが大事なんだということを学習した2011年でした。離れてわかったことは、なんだかんだで凧や盆参りのおかげで人のつながりが濃くて、うざいと思うときもあるけれど、「特別」なところは確かにあるですね。
数年前、祖父が逝去した折、初盆に帰ってこいと言われたとき、札幌の会社の上司にはその意味が分かってもらえませんでした。7月の13日の夜、喪服の男女がすれ違う光景は、ほかの町ではないでしょうし。札幌は季節感があり過ぎるせいで、行事はなくても身体感覚的に季節を感じざるをえません。北海道の、それも別海や標津のような道東では、開拓時代の名残があって、町史や開拓史が充実していて、盆参りみたいな変わった習慣はかえって残っているのですね。それに、道東の漁村は歴史がないようでいて、日本人が交易と布教の目的で霧多布や根室のような辺鄙な場所に入っていて、歴史は札幌や内陸よりも古かったりします。
話題が逸れてしまってすみません。こういう民間の、自治会とか共同体レベルの話は歴史の教科書には書いてないので、こういうことを記録していくことはとても大事なことだと思っています。長くなりました。今年は晴れて、いいお祭りになりますように。さあ、今年は何軒でしょう。そろそろ自治会名簿が回ってくる頃ですね。
しつこく書き込みしまして申し訳ありません。わたしも子供のころ、逝去した祖父からお祭りの話を聞いたことがあったものですから、書き込んでしまいます。
「底抜け屋台」が登場したのは大正時代からだったのでしょうか。祖父が言うには、昔の屋台は「底抜け」で、戦後しばらくの時期、鴨江の双葉遊郭がいわゆる赤線禁止法? によって今の健全な住宅地になる前、夜には芸者衆の曳く底抜け屋台も出ていて、揃いの浴衣を着た芸者衆がそれはきれいだったとか。。わたしらのそばだと、元浜がそういう雰囲気だったか?。
昭和50年代には、コンパニオンが出始める前で、会社の新年会なんかでも、芸者さんが来ていた時代だったと聞いています。わたしも微妙に記憶にあって、お正月には稲穂のかんざしを曲げにさしていたのを覚えています。
前にお書きになっている通り、そんな情緒があったからこそ凧のお囃子が歌舞伎浪曲なのでしょうし。
文化芸大ができて、広小路東六間南の雰囲気は変わりました。公園ができたり、ヤマダ電機、コンビニやレストランも増えて、生活も便利になりました。わたしが思うのは、それはそれでよかったけれど、浜松の中心はやっぱり元城小・縣居小校区にあるべきで、東小校区は春雨通りやあずま通りのころのままでよかったのではないかということです。縣居小校区の方に投資をしていれば、駅から大工町まで人の流れができて、町ももっとよくなっていたかも。まあ、わたしの勝手な妄想ですけどね。
浜松市中区中央の件もそうでしたし、凧の中止も自治会に相談したふりをして勝手に決めてしまったし、行政には文句をつけ続けることが大事なんだということを学習した2011年でした。離れてわかったことは、なんだかんだで凧や盆参りのおかげで人のつながりが濃くて、うざいと思うときもあるけれど、「特別」なところは確かにあるですね。
数年前、祖父が逝去した折、初盆に帰ってこいと言われたとき、札幌の会社の上司にはその意味が分かってもらえませんでした。7月の13日の夜、喪服の男女がすれ違う光景は、ほかの町ではないでしょうし。札幌は季節感があり過ぎるせいで、行事はなくても身体感覚的に季節を感じざるをえません。北海道の、それも別海や標津のような道東では、開拓時代の名残があって、町史や開拓史が充実していて、盆参りみたいな変わった習慣はかえって残っているのですね。それに、道東の漁村は歴史がないようでいて、日本人が交易と布教の目的で霧多布や根室のような辺鄙な場所に入っていて、歴史は札幌や内陸よりも古かったりします。
話題が逸れてしまってすみません。こういう民間の、自治会とか共同体レベルの話は歴史の教科書には書いてないので、こういうことを記録していくことはとても大事なことだと思っています。長くなりました。今年は晴れて、いいお祭りになりますように。さあ、今年は何軒でしょう。そろそろ自治会名簿が回ってくる頃ですね。
Posted by の組東小八中OB at 2012年03月09日 01:57
コメントありがとうございます。
芸者さんとの関わりについては、最近着眼し始めたところなので、じっくり取り組んでいきたいと思います。
鴨江の双葉園は遊郭なので、芸者さんとはまた異なるものだと思いますが。
東地区土地区画整理は、いわゆる都市改造を区画整理という手段で実施したわけですが、それまでの市街地の発展を継承する、というものではなかったために、失われたものの方が大きかったように思います。
春雨通りやあづま通りは懐かしいですね。
芸者さんとの関わりについては、最近着眼し始めたところなので、じっくり取り組んでいきたいと思います。
鴨江の双葉園は遊郭なので、芸者さんとはまた異なるものだと思いますが。
東地区土地区画整理は、いわゆる都市改造を区画整理という手段で実施したわけですが、それまでの市街地の発展を継承する、というものではなかったために、失われたものの方が大きかったように思います。
春雨通りやあづま通りは懐かしいですね。
Posted by 善 at 2012年03月10日 22:24