「浜松凧」とその生業を守る

カテゴリー │歴史




 クラウドファンディング「浜松まつりに欠かせない凧屋を存続させるための資金を提供してください。」が始まったとの事。



 浜松の凧は、その昔「ベタ」呼ばれていたようです。

 四角形に真ん中の尾骨があるタイプ。

 我々が子供の時代1980年代頃の駄菓子屋さんで、子供のおこづかいで買える凧がありましたね。


 あれがベタの原型。


 これを、合戦用に重く頑丈にしたのが「浜松凧」なのだと。

 このように理解してます。


 根拠はこちら。


飯尾哲爾「浜松附近の凧」(飯尾哲爾編『土のいろ』3巻2号、1926年4月)より



 で、その浜松凧は、1880年代の凧合戦流行期と同時期に創業している一瀬堂(田町・当時)とすみたや(元城町・当時)によって、提供されてきた。
 各町内の青年単位で繰り広げられ発展した凧合戦と共に、凧の図案(凧じるし)も、様式が確立された。

 あの凧の書体、天狗やきつねなどの絵を生み出したのは、当時のすみたやと一瀬堂、そしてその依頼をしていた各組である。


 この凧揚祭の歴史と切っても切り離せない、この2業者が、2年続くイレギュラーな状態の中、大ピンチ。


 「すみたや」、「一瀬堂」ともに、浜松の老舗。


 どんな形であれ存続して欲しい。


 微力ながら支援いたします。


 読者の皆様も、よろしければご参加ください。
https://camp-fire.jp/projects/view/418725?list=local_popular


    (善)

♯浜松凧
♯浜松凧を救え



 

93日ぶりの・・・

カテゴリー │歴史

「93日ぶりのログイン ありがとうございます」

 などと、はまぞうさんに褒められ(?)ました。



 正月以来の投稿です。



 さて、新元号が史上初の事前公表。

 元号制度そのものの是非はともかく。


 制定・発表などなど、当事者・関係の方々にあっては、たいへんなご苦労であったと、想像されます。


 日本において。

 「一世一元の制」(ひとりの天皇にひとつの元号)を定めたのは、明治政府でした。

 代替わりごとに元号をつくる、という事自体は、長い歴史から見たらけっこう最近の話。

 明治天皇の即位も「慶応3年」で、明治改元は翌「慶応4年」のことでしたから。


 久しぶりの投稿。
 受け継がれてきた文化としての天皇と元号(代替り・改元)を機に。
 浜松において受け継がれてきた事柄について、ちょっと考えてしまいました。


 さて。
 浜松においては。

 1880年代以降、凧合戦を繰り広げていた現在の中心部各町内において。

 資産家に、その跡取りである長男が生まれ、5月に初節句を迎えると。

 「おめでとうございます!!」

 となり、初凧をねだり、お振舞に預かる、という、なんとも楽しい行事が発生したのですね。

 初節供=初凧=お振舞というのは、各地にあったようです。

 これが、「町内対抗の凧合戦」と結びついたところに浜松の特徴がある。


 資産家の長男、というところがミソです。

 「継承するのは長男」というのは、当時の考え方。
 継承するだけの、資産や商売がある方々は、そうでない大勢の方々へ、こういう機会にお振舞をなさった、という事ですね。

 お祝いに行く側は。
 当該の家が、資産家であればあるほど、ついつい力が入ってしまうものです。
 「おめでとうございますっ!!!」となります。
 その向こうに、 おねだりとお振舞が待っているわけです。



 皇位は、男系男子が継承する。

 とされている旧皇室典範。
 これも伊藤博文の提案で書かれたとか。


 皇位継承者を含め、皇族方の減少により。

 女性天皇を認めるか、それは男系女子までなのか、女系男子を認めるのか。
 という議論が、ずーっとなされています。

 歴史的な観点を軸に、様々な角度から、しっかり議論して頂きたいところですね。




 初凧は長男誕生時。

 5月の節句=端午の節句。

 誕生後、初めて迎えるから初節句。
 その時に揚げるから初凧。


 これもまた、是非はともかく、近代に確立され戦後まで受けつがれた形でした。


 我々前後の世代(私は1974年=昭和49年生まれ)は。

 オレ次男だから初凧なかったよ。

 というのは当たり前でしたね。

 いいか悪いかは別です。

 でも、「そういうもの」でした。

 これがなし崩しになってしまったことは残念です。


 生まれてくる子供には何の格差もないのですが。

 生まれる度に初凧を出すというと、なんだか「誕生パーティ」みたいで迫力に欠けるなァという気がします。

 「長男が生まれた!」「一世一代のお祝いだぞ!」

 という迫力もまた、受けつがれた喜びでした。




 こういう凧揚げまつりのあり方についての議論は、もっと幅広くされるべき。
 と思います。

 この祭をよい形で後世に残すことに必ず繫がるものと。
 




 「93日ぶりのログイン」のタイミングは、すでに新元号「令和」発表後。

 日本文化としての天皇や元号に思いを巡らせつつ。

 浜松の文化としての凧揚げまつり・初凧について、久しぶりに考えてみた次第です。


    (善)






 

凧まつり今昔・・・

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『静岡新聞』2018年4月25日(水)朝刊19面より


 こんな企画展が催されているとの記事。

 やっているのは知っていましたが足を運んでいる時間がなく。

 まだ行っておりませぬ。


 企画展「浜松凧まつり今昔物語」。

 浜松文芸館にて開催中。

 クリエート浜松内に入ったんですね。
 以前は亀山町というか、あの辺にあったと記憶しております。



 「凧まつり」とは久しぶりに聞きましたよ。

 最近じゃめっきり聞かなくなりました。
http://takoken.hamazo.tv/e3083220.html
↑ 2011年6月29日記事。
(ご参照ください)


 写真を見る限りでは、まつり会館に展示している「古い凧」によく似ている感じ。

 これらの「古い凧絵」の出典がどこまで明らかになっているのか。

 楽しみにしておりますよ。


    (善)



 

練兵場の頃

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 山田有一『動 粋 静 浜松まつり』(2007年)の62頁の写真より。

 各組の凧を拡大。サムネイル形式。

 1947年(昭和22年)と紹介されておりますが、実際は1963年~1966年の間です。 
 詳しくはコチラ。
http://takoken.hamazo.tv/e6177715.html 6月16日記事「謎が(年代特定)」。



 あんまりイイ写真なので、もうチョイと深掘りしたくなります。

 左側から

西上池川町・大工町・和地山町・追分町・西菅原町・伝馬町



伝馬町・亀山町・浅田町・海老塚町・龍禅寺町・鴨江町

鴨江町・元城町・連尺町・千歳町・鍛冶町・肴町・池町・尾張町


肴町・池町・尾張町・板屋町・向宿町・木戸町・佐藤西南町(当時「佐藤西町」か)


佐藤西南町・佐藤中町・中島市場町・相生町・天神町



 左から、西部・南部・中央・東部というイメージですね。


 ですが、厳格な区分けでもなさそう。


    (善)





 

浜松空襲

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戦後70年だそうです。

 1945年(昭和20年)6月18日未明、浜松は米軍の空爆を受けました。

 五社神社も、その南隣の諏訪神社も、市街地もろとも壊滅。屋台も。凧も。


 八幡町付近は焼け残ったようで、八幡宮と八幡町の屋台、野口町の屋台は、戦火を免れたようです。

 馬込川東の東海道沿い(相生町・天神町付近)も焼け残ったと、故・伊藤誠一さんから伺いました。


 『中日新聞』が浜松空襲について、「焼き尽くされた夜」というタイトルで連載しております。東海本社版の1面。

 体験者の具体的な証言や資料を元に、詳しく再現されております。


 




 「戦争体験の風化」は、時代が下るに連れてやむを得ないとは思います。

 しかしながら、歴史の中で連綿と(ときに中断を挟みながら)受け継がれてきた行事=「祭」に携わる者として、この戦争の記憶も、我々なりに受け継いでいく必要を感じるのであります。

       (善)



 

謎が(年代特定)

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 何度も登場させてすみません。

 1991年(平成3年)の『タウン情報はままつ別冊 浜松まつり 掟』の表紙の写真の一つです。



 でも、今回はチカラが入っていますので、しっかりと読んでいただきたい。


 この写真は何年の写真か?という年代特定について、別の指摘があったので、再度「1963年~1966年説」を主張します。


 この表紙写真の出典は、表紙をめくった「目次」の欄外に掲載されておりました。

 前掲書の5頁。左上に写真提供元の記載あり。


 つまり、ここ数年は凧場での合戦解説などもされている、かの山田さん。

 そして、山田さんは少し前に自費出版もされて、この写真も掲載されておりました。

 それがコチラ。

 山田有一『動 粋 静 浜松まつり』(2007年)の表紙。


 この62頁に、戦後の経緯の解説と併せて、元の写真が掲載されております。

 何度も言いますが、まこと貴重な写真です。


 そして写真の右下には
「昭和22年凧揚げ会場に35ヶ町位が参加(和地山練兵場跡地)」
とあります。


 ここで、???となるのですね。


 この写真には、野口町の茶色の法被が写っています。

 この「腰に吉原つなぎと松」が入っている法被です。
 
 この法被は、野口町が今の屋台を新築した年に、同時に考案した法被であるとされております。
 つまり1963年(昭和38年)以降の法被であります。

 だから、練兵場の写真も1963年以降だと考えた次第です。


 だが、写真を所有している山田さんは「昭和22年」(1947年)と表記。


 1947年は、凧揚祭が戦後はじめて再開された年。
 山崎さんはこのときは練兵場ではなく「いまの静大工学部の蜆塚の寮のグラウンドを借りた」と記述しています。

 山田さんは、「寮のグラウンドでもやった記憶があるが、それが1947年だったかどうか判然としない」と書いております。

 こうなると、どちらも記憶の部分なので、「和地山だった」「いや、蜆塚だった」と主張し合っても、どっちが正しいとかいう判断はできませんね。


 そこで。
 もう一つ、野口町の法被以外の根拠を探しました。

 写真のやや右側に、本部員と思しき姿が見えます。


 これが本部員(のちの「凧揚部員」)であるならば。この制服の年代でもある程度特定できる。

 そこで、山崎源一編著『浜松凧屋台』(1983年)の102-103頁。



 歴代の「浜松連合凧揚会本部」(戦前の「同統監部」、のちの「浜松まつり本部凧揚部」)の記録。

 今のグレーの制服になる前は、黒っぽい制服。

 その境目が、1959年(昭和34年)/1960年(昭和35年)頃らしい。


 練兵場での写真は、グレーの今の制服に見えるのです。



 野口町の法被、本部員の制服。
 この2点をもって、「1963年~1966年」説を、改めて確認するところであります。


     (善)






 

1963年~1966年②

カテゴリー │歴史

タウン情報はままつの別冊、『掟』(1991年、東洋印刷)。

 表紙の写真の内の1枚。


 下記にコメントいただきました。ありがとうございます。

http://takoken.hamazo.tv/e6161420.html(2015年6月7日記事「1963年~1966年」)
(コチラで拡大版もご覧いただけます)

 ご指摘のとおり、当時の陣屋はテントなどということはありません。
 杭を四方に打って旗を立てた・・・などとも聞いています。

 よって、写真は、各組の陣屋が並んでおり、その前の凧がズラッと並んでいる、という風景なのかもしれません。

 今のようなテントもないのに凧が立つか?という疑問も。
 複数枚あるようにも見えないのですが、何故?という疑問も。

 当時、各組とも練兵場付近の商家や農家の倉庫や納屋を凧置場として借用して、そこを「陣屋」と呼んだとも聞いています。
 つまり、各組の前線基地だから文字通り「陣屋」なわけです。

 
 断片的な話ばかりで、練兵場当時の事がすでによくわからなくなりつつあるのも残念ながら事実なのであります。

 論理的な検証をしつつ、つなぎ合わせて再構成していくしかありません。




 それはそれとして、写っている凧を拡大して楽しんだりしてしまいます。




       (善)



 

戦後の凧まつり

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ここしばらく、1961年(昭和36年)の凧案内『浜松まつり』を紹介しておりました。


 この案内、当時の主催団体である「浜松連合凧揚会本部」および「浜松まつり本部」がどの程度関与して作られたものか、よくわかっておりません。
 民間人である発行人が作ったものを追認しただけなのか、どちらかの本部の意向で発行人が作ったのか・・・。

 つまり、資料としての信憑性も、どの程度か判りませんが、ここに掲載されている状況から推し量ると、以下のようになります。

凧揚げ競技 12:00~18:00 市内和地山町旧練兵場
屋台引回し 19:00~22:00 市内繁華街
  (1-3日各町内、4-5日市内中央繁華街)
木遣道中  10:00~17:00 市内
広告カーニバル 13:00~17:00 市内






 凧揚げと屋台は連合凧揚会本部管轄、木遣道中と広告カーニバルは浜松まつり本部管轄、と想像します。


 凧揚が昼からというのは、ちょっと前までそうだったので驚きませんが、終了が18時とは。

 この資料に、当時を知る人々の証言をプラスすると、今のまつりとは異なる当時の全体像が浮かび上がってきます。


             (善)