ヒント・・・各種「組」②-3

カテゴリー │法被

ボチボチ続けております・・・。


 続いてこちらの「組」の字。


 

 地色が黒で「組」が青。


 一応、ヒントですが。




 黒地に青も映えますね。綺麗なコントラストだなー と、かねがね思っとりました。


                 (善)







3月1日深夜、追記。

というわけで、正解は・・・




 西菅原町でした。



 

高山紀行

カテゴリー │見聞

ご無沙汰していてスミマセン。


 2月26日(日)は、拙者が所属する同業者団体の青年部の日帰り旅行で、浜松を留守にしておりました。

 聞いて驚くなかれ、飛騨高山&白川郷のバスツアー。日帰りで行く距離ではないような気が・・・。

 なんつっても「日帰り」ですから、「紀行」と称するほどのことも無いのでありますが。



 高山入りして、観光バスを停めたところが「高山別院」というところ。


 立派な山門があったので写真を1枚。


2012年2月26日撮影。

 真宗大谷派の高山別院、光曜山照蓮寺というお寺の山門だそうです。
http://www.buddhist-of-hida.jp/menu.html

 重厚感あふれる立派な唐破風(からはふ)がついておりました。こういう門を「唐門(からもん)」と呼ぶのだそうです。


 高山は、旧市街地の町並みが保存対象になっていて ( 「国選定重要伝統的建造物群保存地区」 というそうですが)、とにかく伝統建築がそこかしこにあり、しっとりとした落ち着きのある風情。
http://www.hida.jp/cgi-bin/kankou/sigview.cgi?admin=contents_view&id=104420191500&sig=1


 強行軍のバスツアーのため、散策時間も限られていたのが残念。


                 (善)



 



 

動画初投稿

カテゴリー │動画

先日Uホールで開催された第一回公開報告会。

 記録撮影した動画を見返していて、こんな面白い内容を来た人だけでシェアするのはモッタナイってことで、ちょっとだけyoutubeにて公開していくことにしました。
(全て公開じゃ来てくれた方に申し訳ないので一部のみ公開になります)


 今回は、報告会が始まる前にスクリーンに映し出されていた感じをアップしました。

 会場の雰囲気がちょっとでも伝わればと・・・


 今後は、公開報告会の抜粋映像も含めて、例会でポイントになりそうな部分もアップしていきますので、チェックはかかせませんよ~







http://www.youtube.com/user/takokentakoken
(浜松凧揚祭研究会youtubeのURL)


                            
(Y)




 

「中止」の前後

カテゴリー │中止2011年




まいどどうも。




 ・・・ファイルを整理していたら、こんなものが。


「中止からの動き」2011年7月作成 (善)


 蒸し返すつもりはありませんが、忘れてはいけない現実として。


                (善)



 

ヒント・・・各種「組」②-2

カテゴリー │法被

ハイこちら。






 この大紋の「組」の字は、どこの法被でしょうか?




 そして・・・ズームアウト!!

 


 ・・・なかなか難しいところかも。


               (善)




2月28日追記。


コメントいただきましたので。






 常盤町。変体仮名の「と」ですね。



 

5日間だった頃

カテゴリー │歴史

凧まつりはホントは5日間だった。


 ・・・との話は、どこの町内でも上の年代の方々の口から聞いたことがあるはずです。


 1963(昭和38)年から3日〜3日間に短縮されたそうです。


 現在の現役の我々が「5日間」と聞くと、ものすごいエネルギーを要することのように聞こえます。実際、そういう話をすると、5日間もカラダがもたん・・・という話になりますね。


 しかし。

 5日間当時は、今ほど朝早くから揚げていないですね。


 聞くところによると・・・


 例えば、戦後でも、1日2日4日は「旗日」ではありません。つまり学校や会社がある「平日」だった、というわけです。


 当時の小学生・・・今の60才以上の方々によれば、この1日2日4日は小学校へは2時間だけ行ったそうです。

 2時間目が終わると、「お祭りだから帰んなさい」てなもんで、男の子は家に帰り法被に着替えて、町内の集合場所から練兵場まで駆け足で向い、昼前に陣屋へ到着、桜飯の「おにぎり2個」と「たくあん2枚」をもらって「あれがまた美味かった」という話になる次第。

 そこから凧合戦の始まり・・・という事みたいです。


 当時は凧揚合戦 1:00〜5:00 などとなっていた模様。

 今ほど朝が早くなったのはいつごろからのことなのか、また色んな方々のお話をお聞きする必要がありますね。


                             (善)

パンフレット『浜松まつり84』より




 

ヒント・・・各種「組」②-1

カテゴリー │法被

大好評の(・・・と思い込んでいる・・・)法被の話。






 「赤地白抜き」の「組」なんちゅう法被あるのか?ってなもんですよ。



 そこでヒントのチラ見せ。



 おおっ!!

 もう判りましたね!!。

 判ったあなた、コメント欄へ正解をご記入ください。



          (善)




 ・・・ずいぶんじれったいブログになりそう



     ◆        ◆        ◆


コメント欄に「堀田@ほ組」さんから回答をいただきましたので、同一記事のまま正解を載せますよ。






 

本部といいますが・・・

カテゴリー │歴史

下に書いた戦後の沿革の中で。


 1947(昭和22)年に「浜松連合凧揚会本部再結成」と書きました。


 この連合凧揚会というのは戦前からの組織です。


 戦前は「浜松連合凧揚会統監部」といいました。戦前風に書くと「濱松聯合凧揚會統監部」。


 昨年までの「凧揚部」というのがその末裔です。


 凧場でグレーの制服を着ている「凧揚部」の方々をを指して、「統監部」と呼んだり、「凧揚本部」と呼んだりするのは、戦前戦後の浜松人の社会的な記憶といえば良いのでしょう。


 この連合凧揚会本部とは別に、1950(昭和25)年に「浜松まつり本部」が出来ております。


 この「浜松まつり本部」は、商工会議所や観光協会などが主体となった本部で、凧まつり以外の「広告カーニバル」などのイベントを管轄していました。

 そして、凧まつりの管轄は「連合凧揚会本部」。


 つまりこの1950年からは、2つの本部がそれぞれの行事を統括していた、というわけです。

 私はこれを「2本部並立体制」と呼んでおります。

 2本部並立体制はその後20年間続きました。


                  (善)



パンフレット『84浜松まつり』より


 でもパンフレットの「歴史」には書かれていませんね。