『浜松凧あげまつり』

カテゴリー │浜松凧あげまつり

懐かしい書籍を一つ。

『浜松凧あげまつり』(静岡出版、1984年8月)

表紙

中表紙


奥付には、以下のようにあり、一応「文書サービス」が編集ということでいいのかな。

  発行:㈲静岡出版
  制作:㈲文書サービス
  印刷:東洋印刷㈱

  協力:中日新聞東海本社報道部、
  撮影:中日新聞東海本社報道部の3人の名前


 1984年は私10歳(小学4年)。私にこの本をくれたのは祖父だったらしい。「らしい」というのは、私に手渡したのは親だったわけですが、のちに祖父の書棚からもっときれいな状態の同じ本がもう一冊発見されまして、ホントの贈り主が想像された次第。

 イナカ育ちですから「凧」情報に飢えていたわけで、この本はむさぼるように読みました。

 総カラーで96頁。当時の定価1300円(消費税なし)。

 五十音順で各町1ページ。相生町から和地山町まで。
 「昭和59年・参加83町全紹介」のサブタイトル通り、各町に1頁があてられ、写真が3枚。それもすべて同年の凧場で撮影したもの(一部に例外)。そして解説文。
 解説文には、その町内のおおよその位置、世帯数、用意した凧の枚数、参加人数、町名や凧印の由来などが簡潔に記されております。

 なにせ本物の凧の写真だから、凧じるしも一所懸命みながら練習しましたわ。


 1984年はね。私がただの1回、カゼをひいて休んだ年(5月3日のみ)。

3日 晴れ  西風 すごい強風。
4日 曇り  西南西の風 強くないがテギかけりゃあがる風。
5日 晴/曇 南南西の風 弱風。テギかけても揚らん凧が多かった。

 子供のころの方が、法被こそ着ていたものの純粋に観客だったせいか、よーく覚えているわけ。

 まだ素朴で荒々しい雰囲気いっぱいでした。

                            (善)




 

「新生凧揚部(仮)」

カテゴリー │時事



 下の記事にも載せた各自治会長宛の「浜松まつり本部 凧揚部員の推薦について」の文書です(下線は筆者によるもの)。

 下線部2つ目。

・・・新生の凧揚部において、部の名称も含め、一層の改革に向けた検討を進めて・・・(以下略)

 ということは、「凧揚部」の名称も仮。新メンバーで改革に向けた検討をする。ということ。しかも任期は来年6月末まで。今までの任期は3年でしたが、今回は来年の凧終了後までの単年度。

 本部にしてみれば、現職凧揚部員をすべて解職したのだから、来年度までの期間を改革の時間と位置付けた、ということでしょうか。

 各参加自治会1人だから、各町代表者による組織にもなる可能性もあることになりますね。

 ここは考えどころ。
                       (善)


 

凧揚部異変 「経過報告」

カテゴリー │時事

8月15日の書き込み記事「凧揚部異変!?」の詳報です。


 各自治会長宛に以下の文書が届いておりますのを本日確認しました。
 正確には「浜松まつり参加登録自治会長・組長宛」。発信は浜松まつり本部会長(=市長)名、発信事務は浜松まつり本部事務局(=浜松市観光交流課)。

「浜松まつり運営体制の見直しについて(経過報告)」(下線筆者)



 根拠は6月の「浜松まつり総会」。「運営体制の強化・見直しを進める」という総会の結論に基づくもの、ということです。


 また、現行の凧揚部員はやはり8月12日をもって「解職」となったとの事。

 そして、各自治会にたいする「凧揚部員推薦依頼」も同封されておりました(下線筆者)。





 私は、「『浜松まつり』中止を考える会」、冊子『「浜松まつり中止」を考える』、および「浜松まつり総会」において、以下の提案をしました。

①各町内による行事を「凧揚祭」と認めること(「浜松まつり凧合戦」と「浜松まつり屋台引き回し」ではなく一連行事としての「凧揚祭」であるという認識が必要)。

②「浜松まつり本部が主催/各町内が参加」という図式を「主催者174町による連合体」という図式に改めるべき。つまり、「174町の代表者による代表者会議」を設置すべき。


 今回の「経過報告」では、従前の凧揚部員を解職・新凧揚部員を募集、ということ。各町内の代表者による会議設置というものではありません。


 現状で、各町内は経過報告は受け取ることはできるが意見を述べる場がない、という状況で、その意味では「中止決定」をしたあの時の状況と変わっていません。

 ここは考えどころです。

                         (善)



 

法被の話

カテゴリー │法被

数年前に、二俣のお祭りを見物しながら気が付いたのですが。

 二俣14町の法被に、共通する特徴というか、そういうものがあるのではないかと。言い換えると「二俣風」の法被図案。「二俣風」と呼ぶに堪える特徴があるんじゃないか。

 で、参考に。
 壬生の郷/二俣まつり編集委員会編『壬生の郷 二俣まつり』(同委員会、1992年8月)より。

 14町の屋台とともに、1991年頃のそれぞれの法被も紹介されております。それをまとめてみました。







 浜松の凧揚祭の法被と比較してみると、それぞれの作風というか、その違いが何となく見えてくる気がします。

 浜松のは背中の紋(「大紋」というそうですが)を中心に、キュッとまとまった感じ。対する二俣のは、右上から左下にかけて、連の名前を大書するような。流れるような。そんな感じ。

 それぞれに独自の図案文化があったのかなーと。

 ただ、浜松も二俣も、90年台以降、法被が様変わりしてしまいました。それまで培ってきたものとは違う流れができてしまった・・・のではないか。

 そのように思う次第であります。


                      (善)



 

二俣祭り見学に行ってきました。

カテゴリー │見聞

見物ではなく見学。見て学ぶ。
自分とこの祭りだけで満足せず余所の祭りを見ることにより学ぶものは沢山ありますね。

今年は土曜日の夕方からしか見に行けなかったんですが相変わらず良い祭りやってました。













雨が降ったり止んだりしてるのにほとんどシートをかけていない町がある。

訊くと、
彫刻を見せたい。
お囃子の音色がこもってしまう。
とのこと。













スゲーなおい。


あんな良い屋台今は作れなだろうに過剰に扱わない。















例年の酷暑ではなく雨模様でしたが老若男女の笑顔からパワーをもらいました。















動画はこちらから
http://www.youtube.com/user/akadasuki


(Y)



タグ :二俣祭り


 

二俣のお祭り

カテゴリー │時事

今晩から二俣のお祭りですね。

 NAKA氏に誘われて初めてみたのがもう10年くらい前になるかと。

 自分とこの凧祭だけに熱心だった頃、「よその祭りを見る」というのは、それ自体精神的に大変なものでした。祭をやっている人々のエネルギーの発揮の仕方が異なるので(つまり自分の知っている凧合戦や練りといったエネルギーと違うので)、異様なパワーに映ったのだと思います。
 屋台が走るって、見るまで想像もできませんでしたわ。

 でも、それ以来、見に行くのが毎年の楽しみになりました。


 ところで、浜松以外の各地のお祭りは、本年「自粛」とか、そういう議論はあったのでしょうか。

 浜松だけかいな、ホント。

              (善)

タグ :屋台二俣


 

凧揚部異変!?

カテゴリー │時事

凧揚部を解散した!?との話が数日前から人づてに届いております。

 詳細は解りません。


 凧揚部とは、多くのみなさんが「統監部」とか「凧揚本部」とかよんでいる部局です。凧場や市中で制服を着て祭の現場を見張っている人々の組織です。各ブロックから推薦された人々によって構成される組織です。

 正式には「浜松まつり本部」の「凧揚部」。


 もし本当に「解散」だとすれば、現時点で凧揚祭の運営を統括する機関が無い、ということです。


 詳細が解りません。

               (善)



 

8月15日

カテゴリー │歴史

8月15日は「終戦の日」。

 いうまでもなく、日本がかの「アジア太平洋戦争」を「終わらせた」日です。

 カギカッコ書きにするのは、この言い方について、様々な立場で様々なご意見があるからです。

 日本は正々堂々とアメリカと(戦争を)やった、そして負けた。「終戦」とは詭弁で「敗戦」とするべきだ。

 こういう見解を、軍隊経験のある方から聞いたものです。

 歴史的に見て、対外的にはポツダム宣言を受託し、降伏文書に調印をしたのであるから、やはり「敗戦」であり、東京国際軍事裁判を「戦勝国」が一方的に裁いた、とするのならやはり「敗戦国」という位置づけになりましょう。

 ポツダム宣言受託を連合国側へ通告したのは、8月14日だそうですね。8月15日というのは、ポツダム宣言受託(=無条件降伏)を、国内に知らしめた日。サイレンを鳴らして黙祷をする午後0:00の根拠は、1945(昭和20)年の同日同時刻に、いわゆる「玉音放送」がなされた時刻、というわけです。


 戦争の終結のさせかた、その受け容れ方の是非はともかくとして。
 かの戦争が、その前とその後とで凧揚祭のあり方を大きく変えたことは事実、その意味でまさに歴史的事件でありました。


 1938(昭和13)年から1945(昭和20)年まで、実に8年間(全体としては開催されなかった翌1946(昭和21)年まで含めれば9年間)、凧揚祭は取りやめていたのでした。

 1940(昭和15)年は、神話上の初代天皇である神武天皇が即位してから2600年ということで、当時は国を挙げて「紀元2600年」を祝した、との事ですが、この時に例外的に屋台を曳いたことが写真などに残っています。

 浜松は地方都市としては最も空爆の激しかった都市であると聞いております。浜松を攻撃目標としない場合でも、落とし残した爆弾を天竜川と浜名湖の中間に位置する浜松へ落としたからだそうです。浜松そのものを狙った攻撃で最大のものは、6月18日未明の攻撃(「浜松空襲」)との事です。

 これにより、今でいう「重要文化財」相当に指定されていた五社神社・諏訪神社はじめ、鴨江寺・龍禅寺など、多くの貴重な建造物・瓦屋根の町並み・各町の名士が競い合って建てた屋台もそのほとんどを失いました。

 特に五社神社と諏訪神社は、大修築による復元作業を終えた直後に6月18日を迎えた、と聞いております。もったいない。

 今でこそ、五社神社と諏訪神社は合併されて「五社神社諏訪神社」となっていますが、戦前は現在の教育文化会館(旧市民会館)のところ(つまり五社神社の南隣)に諏訪神社があり、2社が荘厳な社殿を連ねており、そりゃもう見ごたえがあったとのこと。
 伝馬町の東海道筋からそれぞれのお宮に伸びる通りが「五社小路」「諏訪小路」と呼ばれている所以です。

 歴史はそうなる必然があったからこそそうなった、つまり「歴史に“もしも”はない」というわけですが、「もしも東京大空襲でやめていたら」とか「もしも沖縄戦で・・・」とか「サイパン島陥落で・・・」とか。
 なにも焼かれるまでやらんでもねー・・・とついつい思いたくなってしまうのです。


 「やめるにやめられなかった」という状況を作り出した原因は何だったのか、今回の震災に伴う「自粛ムード」の根底にあるものと同じもののような気がしてならない、ということを考えつつ。


                            (善)