まつり会館あれこれ

カテゴリー │「浜松まつり」諸問題

先日、浜松まつり会館をお邪魔して、いろいろなものを拝見しました。


 開館当初は、浜松市の観光施設として浜松市の管理でしたが、2006年(平成18年)4月から導入されている「指定管理者制度」により、現在は遠鉄アシスト株式会社によって管理されているのだそうです。

(浜松市の指定管理者制度についてはコチラ↓「浜松市HP」)
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/shisankeiei/shiteikanri/index.html
(※「浜松まつり会館」がいつからこの制度を導入しているかは判りません)


 どおりで、昔よりも愛想がいいわけだ!などと納得。


 遠鉄アシストはその名のとおり遠鉄グループの企業さんですが、ほかの施設の指定管理もされているようですよ。
http://www.entetsu.co.jp/assist/merit/results.html#shiteikanri
↑「遠鉄アシスト㈱HP」





 それはそれとして「浜松まつり会館」。


 映像ルーム、凧糸製造室、凧展示室(凧・歴代糸、法被)、屋台展示室、それらをつなぐ通路に、凧・糸・法被・屋台・提灯・手拭い・屋台の写真・まつりの写真・昔の凧じるし・・・などが並べられておりました。


 ワタクシとしましては、1985年の開館以来、なんだかんだ言っても何回か足を運んでおります。

 が、なんか印象に残らないのであります。


 毎度ブツブツ言ってはおりますが、基本的に凧揚祭は私にとって〈大事なモノ・コト〉なのです。

 いわゆる「凧好き」「凧キチ」ということになってしまうのですが、そのワタクシにとって、なぜ「浜松まつり会館」は印象に残らないのか?


 いままで、あまり印象に残っていないために考えもしなかったのですが、「なぜ印象に残らないのか」を考えてみたいと思います。




 原因の一つは、「専門性が無い」ということではなかろうか。

 専門性がないとは、「実物がある、という以外に『パンフレット』の内容以上のことが何もない、ということ」といっていいでしょう。


 たとえばこの写真、各組の提灯が「所狭し」と並んでおります。バーっと並んでいて壮観です。

まつり会館あれこれ
2014年7月5日、撮影:浜松凧揚祭研究会


 これだけの数の提灯がまとまって鑑賞できるとは、さすが「まつり開館」。

 なんですが。
 並んでいるだけなんですね。

 これが名残町の提灯だよとか、名残町は旧名残町(ひがらす)が分割される時に「名組」をもらったよとか、凧じるしと同じ「名」の隅立ての角字が入っているよとか。提灯ってこうやって作るんだよとか。
 地図上の地名からは消去されて、現在の鹿谷町と布橋のそれぞれ一部にまたがっている区域だよとか。

 例えば「名残町」というだけでも、解説しなければならないところはこのくらいはあるわけです。

 そういう、具体的な経緯が判らないと、生きたまつりとしての実感がないのです。

 そもそも地域の祭というのは固有名詞の世界。そういう一つ一つの組の固有の歴史の上に成り立っている筈なのであります。


 「地域の祭」というものが、固有の歴史の上に成り立っているとすれば、歴史的な分析が必要。

 いつから「浜松まつり」と呼ばれているのか、それ以前はどう呼んでいたのか、昔から170組以上もあったのか・・・


 そして、凧の印や法被や提灯や手拭いなどのアイテム。

 全てに各組を示す(いわば「ID」のように)図案が入っている。

 こういう祭で用いられる図案に芸術性を私は見出すのであるが、日本では、あまり芸術や美術の学問の対象になってこなかった。だからこそ、なおさら地域の施設においてそういう分析もなされるべきだ。


 地名の問題も然り。現役の町内(=住民の単位)がこれほどないがしろにされる街も珍しい。

 前述の「名残町」も、地名が消えてから既に50年近く経ている。
 しかし、今でも現役の町内で、住民の実体もあり、だからこそ祭もやっている。

 地名は行政の問題だが、祭に象徴される住民の生きた実体を、まつり会館が示さなければ、一体どこが示すのか。

  
 凧糸そのものの問題も。
 凧糸に限らず、凧揚祭を支えてきた凧・糸・染色・提灯・堂宮建築・彫刻などの伝統産業の現状にしても看過できない問題が山積み。


 ちょっと考えただけでも、歴史的な分析、芸術・美術分野からの分析、民俗学的分析、制度組織面での分析、などなど。

 このまつりについての専門的な切り口はいくらでもあるのであります。


 各組で祭を役員として担っていたり、あるいは法被を着て参加するだけだったり、あるいは好きじゃないからご遠慮しますだったり、人によって「祭との関わり方」は様々。

 どんな人であっても、「浜松まつり会館」へ行けば、自分の町の屋台が何年にできたか判るとか、普段の町内では知りえない情報や資料が集積されていて手に入れることができるとか。

 ググッと印象に残る「浜松まつり会館」になるのだろうと思います。



 と、こう考えてくると、「浜松まつり会館」だけの問題ではなく、現行の「浜松まつり」そのものの問題であるということにつながるのであります。

 これは、とりもなおさず、浜松の人が浜松の凧揚祭について知らないということになります。
 自分のことを知らなければ自己紹介ができないように、自分の地域や地域の祭のことを知らなければ、観光PRも出来なければ、昔は当たり前だった地元での祭の理解もまったくされなくなっていきます。


 すなわち、今年の最大の課題でもあった終了時刻の問題とも無関係ではないのです。




           (善)




・・・久々に脳みその膿が・・・



同じカテゴリー(「浜松まつり」諸問題)の記事
おつかれさまでした
おつかれさまでした(2023-05-07 16:03)

記事ふりかえり
記事ふりかえり(2022-09-15 19:50)

忘れえぬ年となり
忘れえぬ年となり(2021-12-31 01:07)


 
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
まつり会館あれこれ
    コメント(0)